>Blog>ブログ>空気を読むと同調圧力と世間体

Webサイトを作ったのはいいのだが、仕事終わりも休日も色々やることが多くて更新する暇がないことに気づいた。自分のキャパの範囲内で更新できればと思っていたのだが、ここ最近はキャパオーバー状態にある。わけあって、ディジタル信号処理について学習しているのだが、ディジタル信号処理の内容がなかなか難しく難航中なのである。他にも読みたい本や学習したいことがあり、少しずつ手をつけているのだが満足に時間が取れない。アホな時間の使い方をしているのはわかっている…。まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、せっかくなので最近考えていることについてちょっくら書いてみるとしよう。それは、空気を読むと同調圧力と世間体についてだ。これらの言葉の本質は、基本的に多数派の意見を前提に考えることから始まり、日本独特の言葉ではないだろうか。空気を読む、とは仲間内などで多数派の意向に沿うように配慮する、と解釈している(解釈は人それぞれだが)。その意向に反した場合、KY(空気が読めない)などと揶揄されたりすることもあるだろう(KYはもはや古いのかもしれない)。同調圧力も同じような意味合いだと思っている。会社においての飲み会がいい例えだろう。強制ではないものの、飲み会は会社の行事であり、行くのが当たり前だという文化的な側面から、半ば強制的に参加させ、参加しない人は社員の評判、特に上司からの評判が悪くなるかもしれない(個人的には今の会社の飲み会は好き)。そして、世間体は法令違反ではないものの、常識という名の暗黙のルールを犯すことで、はみ出し者として社会的に受け入れられない存在となる。コロナ禍のマスクがよい例だろう。

この3つの概念は、自分の本来目的とする行動や主義主張を抑制し、ときには変えてしまう。批判されることを恐れ、自分の意見や考えを隠し、場当たり的な言動をとったり、自分の意に反する行動をとらざる得なくなる。こういったことから、空気を読まず、同調圧力を跳ね返し、世間体を気にせず生きること。周りからの批判を恐れず、個性を発揮することを推奨する意見もある。一方で、協調性に重きを置き、周りの人に同調しならがら社会生活を営むこと。それが大人だ、という意見もあるだろう(必ずしも協調性という言葉が、これら3つの概念を念頭に置かれて使われているわけではないが)。

私はどちらかというとこれらの言葉を悲観的に捉えてしまうことが多かった。他人や世間体のことばかり考え、自重したり、強制されたりするのが苦でたまらないと思うことがよくあったからだ。特に学生時代は校則などというある種、価値観の押し付けのようなルールが大嫌いだった。社会に出てからも旧態依然とした古いしきたりを踏襲した会社が苦手で転職したこともある。とはいえ、私も日本人である以上、社会に溶け込むために、空気を読み、同調を繰り返し、世間体を気にするということはしてしまうのである。しかし、こうしたネガティブな一面は否定できないものの、最近は何となくこれが日本の良さでもある、と感じるようになってきた。それは、日本全国津々浦々、綺麗に整備されたインフラや清潔感のある街、治安の良さ、民のモラルの高さ、公共サービスの質の高さ、交通機関の利便性、時間の正確さなど、日本の素晴らしさを感じるようになったからだ。これらは経済的豊かさだけでなく、国民性が寄与していると考えるのが普通だろう(そうでなければ説明がつかない)。そして、その要因にこの3つの概念も含まれてやしないか、と思うことがたまにある。空気を読み、同調することで何となくバランスを取って丸く収まり、コミュニティがそれなりに上手く成立し、世間体があることである種の普遍的な価値観や暗黙のルールを日本全体で共有でき、その価値観やルールにそぐわない行動を抑制する。ここでいう行動の抑制というのはネガティブな意味ではなく、ゴミをポイ捨てしない、などといったモラルの高さを維持するためのポジティブな意味合いだ。そして、一種の大きな共同体となり、その結果、このような日本の清潔さや治安の良さなどが形成されているのではないだろうか。そう思うと、とても大切な概念でもあると思う。そもそも、その場の雰囲気を察して、空気を読んだり、同調したりするのは、実は単調なコミュニケーションではなく、高度な人間のコミュニケーションではないかと思うこともある。

ただし、これらの概念で、最も恐ろしいのでは、行き過ぎた圧力や間違った価値観を共有してしまうことだろう。そして、思い込みで周りの人間関係や社会から自分が否定されているかのように受け取ってしまうことで、自分自身を追い詰めてしまうこと。価値観からずれた人間や失敗を犯した人間が排除され、二度と立ち上がれなくなること。こういったリスクがあることは間違いないし、そこはもっと寛容な社会であってほしいと思う。また、時には批判や反感を恐れずに発言、行動しなければならないこともあるだろうし、大多数がそうであっても完全に間違っていることは間違っていると言う、矢面に立つような人間も必要だとも思う。結局のところ一長一短であり、バランスをとることが大切ではないだろうか。

適当に帰結を導いてみたのだが、これがここ最近よく考えることの1つ。それと気づいたことが1つ。思ったことをひたすら書いてみると割りと長文になることがわかった。誰が読むねん、って感じだけど、後から自分で読み返して、過去の自分の意見を見てみるのも悪くない。以上。

nishimoto seiji

記事を読んでいただきありがとうございました。

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